”ノリピー祭り”のマスコミの狂態

 
 このブログでは芸能界のスキャンダルを取りあげたことはありません。しかし今回のマスコミあげての”ノリピー祭り”は、芸能界の通常のスキャンダルとは様相を異にしています。芸能人という立場上、普通の人以上のバッシングを受けているのですが、身体拘束された被疑者のノリピーには一切の反論権が奪われています。あらゆるプライバシーをここまで丸裸にされたら、いくら芸能人でもたまらないでしょう。
 どうしてマスコミはこうまでノリピーを敵視するか。その理由をマスコミ内部の経営事情の面から分析したのが、以下のコラムです。
 

広告引き揚げが加速させる経営の悪化を視聴率で挽回したいTVだが
「信頼」と「信用」を失ったマスコミは「裸の貧乏王様」になる 

 巨大メディアの迷走はいまに始まったことではない。しかしリーマンショック以降のテレビ、新聞各社のジャーナリズム放棄の迷走ぶりには、あきれるのを通り越して、凄味と恐怖すら感じる毎日だ。子供も事情聴取せよ、と顔を画面に出し、幼い人権までを破損した”ノリピー祭り”はその究極の姿だろうか。
 経営が悪化すれば図体のでかいマスコミは中身のジャーナリズムを放棄してなりふり構わぬ利潤追求に走る。それがマスコミの公理だ。
 その結果、「信頼」や「信用」というメディアの最大の社会的存在価値を失い、読者、視聴者だけでなく広告クライアントにも見捨てられる。テレビ業界の人間は視聴率さえ取れば広告はついてくると勘違いしているが、いくら視聴率が取れても信用のない番組は広告の対象にならない。「あるある大辞典」や「バンキシャ」の捏造番組の末路を見ればわかる。
 いまマスコミを襲っているのは、広告の引き揚げだ。新聞は収益の約半分は広告だし、民放テレビは全部広告収入に依存している。広告はマスコミの生命線である。
 ところが、ヤフーやグーグルなどのネットに広告を奪われたうえ、クライアントの国内の大企業や中国、米国、欧州など海外の大企業は、日本のマスコミの広告効果を疑問視している。商品販売に結びつく期待感が少なく、費用対効果が希薄なのだ。
 そのうえ信頼性が低下すればなおさら広告効果はなくなる。経済グローバル化のなかで、独自の宣伝戦略を練る企業が増え、グリコやユニチャームのように、自前のメディアを持ち、消費者の行動をリアルに分析したネット広告や口コミを重視する流れが加速している、という。
 週刊現代」(9月5日号)によると、企業に見捨てられたマスコミの最大のクライアントは、サラ金、宗教団体、政党、政府省庁の広告になりつつあるという。(同誌「新聞・テレビは死ぬのか 宗教団体・政党・省庁のカネを狙え」)。これを裏付けるように、最近のテレビの通信販売番組が目立つ。
 つまりマスコミは憲法に保障された「言論の自由」を自らの手で放棄してクライアントの宣伝機関紙化していることになる。北朝鮮メディアを嗤えない悪状況が、言論の自由のあるわが日本国にも発生しているのだ。
 「週刊現代」の同じ号に、国策捜査を訴えながら有罪判決を受けた作家で外務官僚だった佐藤優氏が「新聞の通信簿」というコラムで、「酒井法子氏の覚せい剤騒動で8月4日ー5日のクリントン元大統領の訪朝と拘束されていた女性ジャーナリストの釈放」のニュースがかきけされたと指摘している。
 このニュースは日本の北朝鮮外交戦略の変更につながる大事件だったと、佐藤氏はいうが、まさに同感である。
 また同じ日に日本の裁判員制度がスタート、第一回の裁判が行われたのだが、これに日程を合わせたかのように女優・酒井法子が逮捕された。彼女は裁判員制度PR映画「審理」の主演女優という不思議な符号ぶりだった。
 日本の進路を決定する総選挙も近い。内外の重大ニュースが目白押しの中で、煙幕をはるように降って湧いた酒井法子逮捕劇が起こり、マスコミあげての”ノリピー祭り”が始まった。
 今回のテレビの報道洪水は、ノリピーには酷な言い方をすれば、松本サリン事件のときの河野氏のケースや幼児殺人の畠山鈴香被告、和歌山カレー殺人事件の林真須美被告のときと変わらない異常な加熱ぶりで、現在も続いている。
 しかし芸能界の麻薬汚染は周知のことであり、ネットにはもっとひどい中毒者らしき有名人の名前が具体的に出ている。芸能人はほぼ覚せい剤や麻薬使用の経験があると見ていいとの書き込みもある。
 テレビに出て口汚くノリピーをののしる芸能人たちがみな同じ穴の狢に見え、懸命に自己保身している図に見える。テレビに出る芸能人はやたらとハイテンションが多く、覚せい剤でもやってるんだろうか、と疑わせる人物が多い。テレビ局の人だってわからない。
 ノリピー・バッシングの内容は、覚せい剤犯罪事実の物証よりは噂、自白(本当に自白したかどうかわからないが、警察のリーク?)、周辺・親族の証言などに終始しており、総じて本人には不利な情報ばかりで、テレビ報道の目的は理屈抜きにノリピーを起訴、有罪、執行猶予なしの実刑に追い込みたいという意図を強く感じさせる。

  たとえば、”空白の6日間”は覚せい剤を抜くためだったとか、髪を切って証拠隠滅をはかったなどの報道についても、そんなに周到に証拠隠滅を図る余裕があったなら、唯一の物証となった自宅の微量の覚せい剤をなぜ処分して逃げなかったのだろうか。後で使うつもりで置いていたとの供述があるようだが、その自覚があったなら逃げるとき真先に処分するはずだ。従ってノリピーが知らないうちに誰かが置いていたものではなかったということもあり得る。テレビ報道は視聴者のこんな初歩的な疑問にも答えることもできていない。関係者は心理学や文学も勉強したことがないのか?

 テレビ局の狙いはノリピー憎さというより、ノリピー叩きなら視聴率が稼げる、逃げる広告クライアントをつなぎとめられる、という一点につきるだろう。。。ギャラをもらって出演するコメンテーターもテレビ局の描いたシナリオに乗るだけだ。
 その視点から、一連の報道内容を詳しく分析すると、人権侵害や名誉棄損などで提訴できる部分が多々ある。その意味でノリピー事件は、日本のメディア研究の格好のテーマを与えてくれている。ノリピーが起訴されて有罪になったとして、いくら人権侵害メディアが望んでも死刑にも無期懲役にもならないのは確かだから、いつか必ず釈放される。日本は一応、民主主義の法治国家だから。
 報道被害の事実関係の本格的検証は、ノリピー裁判が終わり、釈放後から始まる。釈放されたノリピーの口から実際の生の証言を聞くことで、今回の報道の虚偽と問題点が解明できると期待している。
 それにしても、ノリピー報道洪水の裏に”押尾事件隠し”があることは周知の事実だ。マスコミ報道はノリピー叩きのみで、死者まで出ている押尾被告を不思議なほど追求しない。

 押尾事件報道には政治的圧力やタブーでもあるのだろうか? 押尾被告は外交官の息子ということだが、そういう特権を背景に”死人”疑惑が免責されるなら、日本はもはや法治国家ではない。法が特権者の感情によって支配される国家とは独裁者の国家を置いて他にない。日本のマスコミのノリピー叩きはメディアスクラムによる”集団リンチ”の様相をおびており、マスコミが作る大衆感情によって法が歪められ支配されている。
 しかるに六本木ヒルズに潜む巨悪と麻薬・児童買春にまつわるネット情報の1%の真実を信用するだけでもマスコミ報道の不公正が見えてくる。 ノリピー叩きに費やす膨大な時間とエネルギーに対して、押尾事件への沈黙と無視を比較すれば、マスコミ報道のバランスがいかに狂っているかがわかるのだ。ノリピーの”空白の6日間”の闇よりは、押尾被告のヒルズの闇のほうがはるかに深い悪の闇なのではないか?
 

 町に出て街頭インタビューをすれば、誰でもマスコミ報道はバランスを欠いていると答えるだろう。われわれの調査でもそういう結果が出ている。
 仮にもジャーナリズムを標榜してきたマスコミへのこのような痛切な批判はとても残念である。しかしこのまま放置すれば、マスコミは「裸の貧乏王様」になりかねない。これが今のマスコミの現実なのだ。だからこそ警告しているのだ。
 このコラムで芸能界のスキャンダルを扱うことはなかったが、”ノリピー祭り”だけは看過できない事件だった。
 しかしながら、テレビではNHK、新聞では朝日が事実関係を述べるだけに止め、比較的押さえた報道をしていたのが救いといえば救いだ。それにしてもジャーナリズム組織の経営悪化は、恐ろしいメディア社会を生むことを知り、われわれは新たな教訓を得ることができた。
 読者・視聴者・企業クライアントの賢明なメディア選択とメディア・リテラシーの徹底を望む。すべてを疑うこと、それがスタートの原点だ。

えー、ノリピー逮捕は”国策捜査”だって?

Tshibayama2009-08-15

 ブログをしばらく休載していましたが、夏休みになり時間ができました。選挙モードで政権交代がどうなる?と思ってテレビを見ていたら、ノリピー逮捕事件の大洪水が起こり驚愕。選挙モードも吹き飛ばす勢いです。
 こりゃ、いったい何事か?
 で、取材をすると以下のことが判明したというわけです。うーむ、。。

 写真は裁判員制度PRビデオに主演した酒井法子(「審理」DVDより)
選挙告示目前!大新聞は関係政治家の名前を明らかにせよ 押尾事件で政界に激震が、ヒルズの部屋に出入りしていた政官人脈とは誰だ 


 ノリピー逮捕の背景に、押尾事件隠しのスケープゴート説(生贄のヤギ)が有力になりつつある。
 押尾逮捕で政界に激震が走り、急遽、人身御供としてノリピーが差し出された、というものだ。
 ノリピー逮捕劇のあと、河村官房長官が芸能界の覚せい剤汚染には厳格な捜査を望むというコメントをわざわざした発表したとき、あれれ?と思った視聴者は多い。押尾でなくなぜノリピーなのかという疑問だ。
 民放テレビ各局は臨時ニュースの扱いで、逮捕されたノリピーの深夜の移送劇を生中継し、NHKには逮捕のテロップが流れ、翌朝の全国紙は一面でノリピー逮捕を伝えるという騒乱ぶりだった。
 新聞各社は選挙要員の社会部記者を急遽、ノリピー事件に張り付けたという。大忙しの新聞社にとっては降ってわいた迷惑ニュースだった。
 新聞社には迷惑でもテレビにとってはおいしいノリピーで、TBSのワイドショー・ニュースキャスターの時間帯に合わせるようにして、ノリピーが逮捕移送されたのも演出なのか。護送車の中のノリピーの屈辱と羞恥にうつむいた顔がしっかり見えるような手の込んだ演出もあって、視聴者は魅了され、視聴率は38%とWBC中継なみの高さだった。
 以降、テレビ各局のノリピー・フィーバーが続き、その直前に麻薬使用で逮捕された押尾学がテレビの画面から姿を消してしまった。
 これは押尾隠しではないか。ノリピーにマスコミの目をくぎ付けにして、押尾から目をそらそうとする”国策”が働いたという説が浮上した。
 押尾といっしょに麻薬をやって死んだ銀座ホステスの女は、国会議員の娘?という噂が流れて政界に激震が走り、押尾らヒルズ族のパーティには政治家や警察や官界の幹部が参加していたという情報も出てきたという。
 こうした情報は大マスコミは報道していないが、ネット新聞には詳しく出てくる。2ちゃんねるにも関連政治家の名前が具体的に出てくる。
 押尾が使った部屋は有名な女性経営者が提供したというが、六本木ヒルズにはこうした部屋がほかにもいくつかあり、そこは著名な芸能人、政治家、官僚幹部、IT長者たちのパーティ遊び部屋で有名だったと、ネット新聞は書いている。ネット新聞によれば、その大人の遊びの内容は危険物ばかりで、麻薬や少女買春の温床になっていたという。
 押尾事件を突破口にこれが発覚すれば、選挙前の政界は大きなダメージを受ける。ただでさえ野党・民主党に圧倒的な追い風が吹いているときに、危機感を強めた政界は、大慌てでノリピーを押尾の身代りにしてマスコミの前に差し出した、というのである。
 自白だけで物的証拠に乏しいノリピーが起訴か不起訴わからないが、拘置期間があと10日延長されれば、選挙前日に起訴、不起訴の結論が出ることになる。となれば、選挙ぎりぎりまでノリピーはマスコミで”活躍”し、使われるタマになり、政権交代の選挙結果に大きな影響を与える可能性がある。
 ヒルズの女性社長や押尾のパーティに参加していた政治家は誰か、その名を国民は知りたがっている。そういう人物は落選させなければならないからだ。ネット世界にはすでに名前が上がっているから、大マスコミが真偽を報道しなければ、かなりの数の選挙民はネット情報を信じ込むだろう。
 選挙権のある大学生レベルの80%の若者は、新聞もテレビも読まないが、ネットは毎日見ていて、自分で情報を集めてニュースを自己流に判断している。大人世代と違ってネットへの信頼感は強い。ネットに比べれば大新聞やテレビへの信頼度は非常に低い。マスコミは情報操作が多くて信用できなという理由だ。
 今回も情報操作の匂いがぷんぷんする。「頭隠して尻隠さず」の稚拙なノリピー”国策捜査”にも見えるが、この国策捜査説が間違いなら、そういうメッセージを与党は断固として発する必要がある。ジャーナりズムなど信じていない若者はネット情報が正しいと判断して、選挙に行くだろうから。
 いずれにせよ、ノリピー逮捕劇のテレビ報道のカラクリと化けの皮は剥がれているのだ。思えば、はじめから出来すぎたストーリーだった。夫(囮?)の逮捕現場にのこのこ出現させたあと、泣きじゃくって子ずれ失踪、深夜なのにTV証言する者の多さ、捜索願い、数々の追跡情報や買い物情報のリーク、携帯電話の電波、遺体発見説、一転の逮捕状、指名手配、逮捕から深夜の移送劇のテレビ中継のドラマは、子供まで使って落ちたヒロイン伝説を盛り上げた。しかし古くさいテレビ政治の手法である。
 NHKは別として、ノリピーという美味な餌に食らいつき視聴率しか目にない民放テレビなどは、若者にならって見ないにこしたことはない。証拠揃わなくても起訴すべしと滅茶苦茶なことを主張していた自称ジャーナリストのコメンテーターは、ジャーナリスト仲間の範疇から除外することにしよう。ジャーナリストは犯罪者を作るのが仕事でなく、真実を追求するのが仕事だ。
 ジャーナリズムを名乗る大新聞は選挙前の国民の期待に答える義務がある。押尾事件の背景にある腐敗した政治家のコネクションを勇気をもって明らかにべきだ。
 ノリピーは子供さんのことも気になるだろうけど、こうなったら腹を据え、筋が通らないなら自ら起訴を望み、裁判の場ですべてを語って欲しい。拘置の苦痛や屈辱から逃れるために嘘の妥協はしなように望む。自分の身に何が起こったか、何をしたか、逮捕劇から取り調べ内容の逐一を詳細に裁判で語って全貌を明らかにして欲しい。
 ノリピーには裁判員PRビデオに主演した責任がある。あのビデオを見て裁判員になることを納得した人がいるのだ。そういう市民を裏切ってほしくない。裁判とは一方的に被告が裁かれて罪を決められるだけでなく、真実を明らかにするものでもある。公正な裁判を受ける権利は日本国民の重要な権利の一つだ。
 自らの真実を明らかにすることが、裁判員制度ビデオ制作にかかわったノリピーの社会的義務でもある。不幸な出来事ではあったけど、その体験を素直に語ることで、もう一度、日本の国作りに参加してもらいたいと思う。そうすればジャーナリズムも含めノリピー大弁護団ができて、国民の支持と共感は必ず戻ってくる。これまでとは別の意味の社会的アイドルになるだろう。
 ネット新聞が言うように、ノリピー”国策捜査説”や薄汚れた押尾隠しのための意図的な捜査手法が使われていたのなら違法であり、民主主義国家日本の重大な危機である。
 選挙公示目前の政権交代選挙直前の時期だけに、事件が選挙に与える悪影響に強い危機感を覚える。
 さらには、起訴、不起訴も決まっていないのに、ノリピーはマスコミによって全国引き回しの罪人にされ刑を代理執行されてしまった。これは許せないことで、誰が見てもマスコミの行き過ぎだ。
 このさい、ネットにジャーナリスムの役割を”政権交代”されないように、大新聞記者の奮起を望んでやまない。大新聞の記者の中には筋を通し、腰ぬけではない立派な記者が中にはいることに期待している。

新型インフル臨時休講で

思わぬ連休をエンジョイしていますが

  つれづれなるままに「情報操作」について、ブログに書く気分は兼好法師の心境です  

 新型インフル蔓延は成田空港や関西空港で止めてくれるのだと国民は思っていたし、桝添大臣もそういう確信を記者たちに話していたので、関西在住の私も安心していました。
 メキシコや米国などの衛生状態の悪いところからインフルは流行していて、日本のように清潔で衛生状態の良い国では発生しない、という思いこみが国民にもあったようです。
 しかし神戸や大阪の偏差値の高い名門高校の生徒がまず感染し、次々に拡大してゆきました。
私は関西のいくつかの大学で講義をしていますが、このインフルの影響で兵庫県大阪府下、滋賀県の各大学が相次いで休講となりました。
 休講の要請は政府の指示により兵庫県大阪府滋賀県などの自治体行政側から半強制的に出されています。
 私が講義している神戸女学院立命館琵琶湖キャンパスでも休講になりました。私としては思わぬ連休を手にいれることができたというわけです。GWに続き、こんなに遊んでいてよいのだろうか、と勤勉を誇りとする?日本人としては面はゆい気分です。
 立命館で私はジャーナリスト養成塾を担当しています。気鋭のジャーナリストを育てる特別授業で、5月からスタートした少数精鋭主義のゼミナールです。知友のノンフィクション作家保阪正康さんや軍事評論家の小川和久さんらをゲスト講師に招いて塾の手助けをお願いしました。
 その最初の授業の前日、立命館の学生が感染したとのニュースが報道され、急遽、大学は1週間の休校を決めました。それで最初のゲストだった保阪さんに携帯電話で連絡を取り、休講になった旨を告げました。
 保阪さんは名古屋に講演に来られており、その足で草津立命館まで来ていただく予定でした。
休講のお詫びの電話をしながら、「民主党代表選挙のころから急に関西の国内感染の拡大が発表されて、どこか情報操作の臭いがするな」などと話し合いました。何となくファッシズムの臭いがする。
 確かにそうです。話した時点では東京と京都に患者が出たという発表はありませんでした。その後、八王子や川崎の高校生が感染したことがわかりましたが、これは都心部ではありません。
 なるほど東京と京都は対外的な日本イメージを決める特別な都市です。神戸、大阪で発生したものが、京都を飛び越えて一挙に滋賀県に移動してしまったのもそのせいではないか? と考えれば納得がいきますが、京都に感染者がいないというのは、不思議な話です。
 京都には滋賀県よりも遙かに多数の大学があり、大阪、神戸からたくさん学生が通っているし、世界中から観光客が集まって来ますから、感染者が出てもおかしくはない。同様に世界中の人が集まる東京都心から感染者が一人も出ていないのも不思議な話です。
 感染者の発表は政府厚生労働書と桝添大臣の専管事項のようですから、感染者情報の発表を恣意的に操作することは可能なはずです。
 先日、京都の嵐山近くにある大学に出かけましたが、その帰途のバス中で、マスクもせずにものすごい咳をして喉を鳴らしているヤクザっぽいセッタ履きの男がいました。男は前の座席の女子大生に盛んに咳をはきかけていました。まだ神戸の感染ニュース報道の前のことですが、すごく不気味な気分でした。その後、喉が痛くなり咳がでたりしましたが、やがて収まりました。しかし男の前にいた女子大生は大丈夫だったかな、と思っています。
 4月の中・下旬の新学期から、京都の学生の中には風邪を引いて休んでいる人がたくさんいて、今年の風邪は長引いてたちが悪い、という風聞は流れていました。
 そんな訳で京都に患者が出ていないのは本当に不思議なのです。
 「京都と東京都心に感染者が出ていても情報をコントロールして国は隠しているんじゃないだろうか」。保阪さんとはこんな結論に達しました。
 厚生労働省の感染者発表の経緯と情報伝達ルートを調査すると、さらに面白いことがわかってくると思います。
 その狙いは危機管理シュミレーションです。現代史の第一人者らしい保阪さんの分析によくりますと、このシュミレーションは戦時体制の国民総動員の現代版を想定しているらしい、ということになります。
 そうすると桝添大臣は戦後初の大本営総裁ということになりますが、、。

オフ懇というギャル遊びの場

政治の堕落に拍車をかける記者の癒着と堕落は見過ごせない

 小沢氏への面会を望んだクリントン国務長官は面子を潰された?

 これで政権交代は遠のいたと誰しも思っています。民主党を支持するしないにかかわらず、いまの日本に政権交代霞ヶ関改造は必要だと国民の大多数は感じています。しかし小沢氏の秘書逮捕によって小沢氏のゼネコン癒着疑惑がマスコミで大騒ぎになり、かつての田中金脈問題のような報道ぶりになってきました。
 政治と金の話が重大な政治の節目で蒸し返されるのは、お定まりの戦後日本の政治文化でもあります。
 それにして政権交代を控えた総選挙秒読みのこの時期になぜ小沢問題で検察が強制捜査に動いたのか。国民世論もこの点をいぶかっています。米国で言うと、世論の形勢固まった大統領選挙戦の終盤んころ、オバマ陣営に対してFBIが手入れを行ったのと同じようなことです。米国では民主主義への挑戦と受け止められる選挙時の行政権力の介入はあり得ないからです。
 次期総理候補として小沢氏との会談を強く希望した米国クリントン国務長官オバマ政権もさぞかし面子をつぶされた思いで事態を受け止めているでしょう。
 検察はどうしても政権交代を潰したかったという趣旨を唱える政治評論家もいますが、検察が単独意思ででそういう動機を持つことがあるのだろうか。国策捜査というのなら、行政権力をコントロールしている官邸や法務大臣はこれを事前に知っていたことになります。
 その点で、政府筋直属の漆間官房副長官が「自民党には絶対に及ばない」とオフレコの記者懇談会で話したコメントは重大な意味を持ちます。
 そのオフ懇とは本来はブリーフィングと呼ばれるもので、大新聞のエリート記者しか入れない極秘的空間なので、本来は新聞に書いてはならないという約束ごとがありますが、もし重大な国益を損なうような話が出てくれば、リスクを引き受けて書くのは記者の自己責任になります。国民のためにオフ懇の話を書いてもいいのです。
 ところが、漆間オフ懇談話のどこが問題なの、という新聞記者もたくさんいるようだし、小沢民主党への政権交代を是としない新聞社も当然あるのでしょう。
 そういうマスコミはいまの現政権と癒着することによって甘い汁をたくさん吸える立場にあるし、政権交代すると既得権益を手放さなくてはならなくなります。
 オフ懇のメンバーの官邸記者にもいろんな人種がいますから、一枚岩ではありません。どうやら若い女記者もいるようで、中には美人記者と評判の若い女の子もいるみたいです。政治家たちはそういう娘記者に囲まれるとつい気を許し、まんざらではない気分でしょう。美人局よろしく、機密情報や裏ネタを取るために若い娘をわざわざ送り込む新聞社もあります。なにやら映画「スパイ大作戦」みたいですね。
 オフ懇メンバーの若い官邸詰め女性新聞記者が書いていたブログを読むと、総理にバレンタインのチョコを贈って、返しのホワイトデーに何をもらたったかとか、漆間さんは話のわかるおじいちゃんなのに、漆間発言のどこが問題なのかわからない、などと気楽なギャル語文体で書いています。育ちの良い麻生さんや漆間さんをマスコミがあまりいじめたら可哀想じゃん、という内容です。お友達の政府高官と癒着する遊び感覚が丸出しです。オフ懇って政治家や若い娘が和気藹々で遊んでいるところなのですかね。
 そういえば、中川前財務大臣酒気帯び会見事件の前に、一緒にワインを飲んでいたという美人女性記者がいたというから、やっぱ中川氏の失敗もオフ懇秘密クラブと関係があるのかな。
 これから先、政権交代は遠のき、日本の堕落はいっそう極まります。

「おくりびと」は世界に癒しを与えた

歌舞伎、能、華道、茶道、相撲だけが日本文化ではなかった

死生観のなかにこそ、真の日本文化があると世界が認めたのだ

 映画「おくりびと」がアカデミー外国映画賞を受賞したことは嬉しいニュースだった。戦後政治も経済も崩壊し、すべてが混迷する世の中で、オバマ大統領の誕生だけに希望を見いだそうとしていた”哀れな”日本人に大きな勇気を与えてくれた。
 たかが映画、されど映画である。
 カンヌ映画祭で本木さんに会ったことがある。日本レストランで食事をしたのだが、内田裕也、宇崎竜童さんも一緒だった。
 今回オスカーを獲得した同じ滝井監督作品で内田裕也さんが主演した「コミック雑誌なんかいらない」という映画をカンヌ映画祭に出品し、この映画に本木さんも出演していたのだ。当時の本木さんは「しぶがき隊」のアイドルだったが、アイドルぽいところはなく、映画の演技はしっかりしていた。
 その後、尾崎秀美を描いた「スパイ・ゾルゲ」に主演し、この映画で堂々たる演技を見せ、立派な俳優になったな、と思った。
 彼が大変な努力家だということも知っていた。そして今回の受賞である。

日本人の死生観に世界の注目が 前評判の高かったイスラエル映画を押しのけての受賞だった。泥沼のパレスチナ紛争やイラク戦争に世界が疲れ切っている。村上春樹氏がイスラエルで演説したように、なにはともあれ「弱い卵」の側に世界が味方するしか解決の手だてはないようだ。
 そんな中で「おくりびと」は、宗教戦争イデオロギー戦争に疲れた世界に癒しを与えた。滝田監督の力量に加えて、本木さんの生真面目で静謐な愛の演技が世界の観客の心を揺さぶったのだ。
 これまで海外向け日本文化といえば、浮世絵、歌舞伎、能、華道、茶道、相撲の世界ということになっていた。しかしこういう世界は権威主義化しどこか薄汚れた拝金主義が漂っている。日本人は仏教徒と自他ともに認めてはいるが、日本の仏教界は世界の宗教戦争には何も役割を果たすこともなく、観光客を呼び込んでひたすら拝観料を集める拝金主義に陥り、宗教とは無縁の葬式仏教などと揶揄されている。
 そんな中で「おくりびと」が描いた死生観は、日本人が時代を超えてもっていた宗教観がベースになっている。あの世への旅立ちは、悪いことでも何でもない。この世の命を終えた肉体は滅ぶが、肉体の中に存在した魂は転生する。魂は永遠に生き続ける。それが死者を送ることであり、送る人の尊厳なのだ、と映画は教えてくれた。
 さきのコラムで書いたように、クリントン国務長官明治神宮訪問にも、「おくりびと」受賞と同じことを感じた。日本文化の見方がチエンジしているのだ。
 戦後のアメリカは、神道的な死生観を「邪悪なる異文化」として退けてきた。しかしいま「おくりびと」の優しい死生観が、戦いに疲れ切った世界に癒しを与え、日本人自身が忘却していた死者を送る文化が、俄然、注目を集めているのだ。
 そのきっかけを作ってくれた本木さんとアカデミー映画祭の選考委員会に感謝したい。日本は金の力や軍事力でなく、宗教や芸術、哲学で世界に貢献できることを知るべきだ。

 戦後、「過去の戦争に結びつく危険なもの」として退けられ、忘却されてきた日本の本当の歴史文化が蘇りつつある。GHQのホンネは戦死した日本兵の魂が、故郷の杜に戻るという思想を恐れて、神道を排除したのだ。
  「おくりびと」だけでなく、同時受賞した加藤久仁生監督の「つみきのいえ」も素晴らしいアニメーションだ。本木さんや加藤さんのような若手がどんどん世界の映画界で活躍することで、日本は変わるだろう。
 目先の選挙しかない政治家や自己利益に汚れた経済人、税金、年金を横取りする役人たちは、本木さんや加藤さんの爪の垢でも煎じて飲んで、身に染みついた汚れを除いて欲しい。汚れたマスコミもまた同じだ。

日本記者の無知と中川大臣辞任報道

同行記者はなぜ記者会見席上で注意しなかったのか

世界は生き馬の目を抜くメディアの戦場だということに無知な日本人記者たち

 中川財務大臣酒気帯び記者会見・辞任問題がメディアで、時ならぬ集中豪雨報道が起こっている。
 しかし問題の記者会見のシーンを見ていた限り、会見の場で中川氏の異変を指摘する日本人記者はいなかった。中川氏の表情がおかしいだけでなく、隣の日銀総裁のコップを取ったシーンに、唖然とした。しかし同行記者たちは”粛々と?”まるでロボット記者でもあるかのように、無感情で機械的な質問を続けていた。
 やがて外国のメディアが冷やかし半分に酒気帯び疑惑を報道することで、日本のテレビ、新聞は俄に騒然とし、外国メディアの尻馬に乗った報道洪水が起こったというわけである。そんなわけで、中川氏の”首を取った”と囃し立てる日本メディアの振る舞いは、浅はかだし釈然としない。
 なぜ、日本人記者は会見場で中川氏を注意しなかったのか。中川氏あるいは周辺が体調異変に気づいて退席するなどの措置を講じていれば、鵜の目鷹の目の外国メディアの餌食になることはなかったのではないか。
 世界は”生き馬の目を抜くメディアの戦場”である。平和呆けの日本人記者は記者クラブの温室にどっぷりとつかり、ジャーナリズムとしての誇りも質の競争もなく、日頃からなれ合い報道を続けているツケだろうか。
 G7の場の中川氏の失敗で国益が大きく損なわれたのだ。とはいえ円がどんどん安くなっているのは、怪我の功名かもしれない。
 思いがけない失敗は国際社会の苛烈な報道戦争の場で露呈し、外国の報道機関に振り回された後追い報道にうつつを抜かす羽目になるのだ。
 メディアは事実を報道するものだが、同時にその国の誇りと国益を背負ったものであることを、記者は忘れてもらっては困る。
 中川氏の恥は日本のメディアの恥でもあるのだ。
それにしても中川氏と食事を共にしたという読売新聞の同行記者がいたというが、食事を共にしたのなら、解説でも弁明でも、記事のひとつでも書いたらどうなのか。いやはやどうなっているんだろう?

オバマ演説から希望をもらった日本の若者たち

コピペでないレポートから見える若者の希望と絶望

 オバマさんは私たちも一緒にそこまで行きたいと思わせてくれた”
大学の非常勤で教えている身でも、期末試験の季節になると、膨大なレポートの採点に忙殺される。最近の大学生はネットのコピペでレポートを済ますとテレビ番組で冷やかされる事が多い。そういう学生もいるだろう。
 しかし大半は違う。真面目にレポート課題と取り組み、よく調べて、自分の文章を書いてくる。瑞々しく柔らかな感性の文章に触れたときは嬉しくなって、これまでの苦労も吹き飛んでしまう。
 今年はオバマ論を書いてくる学生が多かった。特に就任演説に感銘を受けたとか、オバマの言葉に希望をもらったという理由で、何か文章を書きたくなったようだ。
 オバマ演説の中の気に入った文章を引用し、「政治家の演説はこうあるべきだ。オバマ氏の「チエンジ」には、「歩いている道の先に明かりを灯し、そこまで行きたいと思わせるような前向きなところがある」という論旨があった。
 日本の政治家では小泉氏の言葉はダントツの力と情熱を感じさせたが、あの「ぶっ壊す」という言葉は、「いま自分たちが歩いている道をもぶっ壊されそうで、暴力的で後ろ向きな感じがあった」と比較している。
 しかしオバマ氏の語りは、日本の若者にも感動を与え、未来への理想と情熱をかきたて、政治を語る希望を蘇らせたようだ。
 確かに、日本の政治家の言葉にはオバマ氏のような感動の物語がない。物語がないということは夢も希望もない、ということでもある。
 いまは世界大恐慌かもしれないが、オバマ氏のように明日の希望を熱く語る指導者がいれば、国民の気分は少し楽になり、財布の紐も緩んで消費に金を使い、景気や経済も良くなるかもしれない。
 人が宝くじを買うのは、夢を買うのであり、本当に当たると思って買っているわけでもない。
 政治家たちが、国民一時金を出す出さないとケチな話を繰り返していても、国民の夢や希望にはならないのだ。かりに一時金が支給されたとしても、使ってしまえばそれで終わりだし、その後には怖い消費税が大口を開けて待ちかまえている。
 世論への影響が強いメディアも犯罪や暗い話ばかり特集して、これでもか、これでもかと世の中を暗く見せている。これでは景気が悪くなるしか道はないのだ。
 オバマ氏が、国税をつぎ込むメガバンクのCEOの年収額の上限を決めた措置は米国民の理解を得ており、85%の米国民はオバマ氏への期待を感じているようだ。国民に我慢を要求するオバマ氏は、自分自身にも辛い仕事を課している。このやり方を日本の政治家や日本政府は見習ったらどうかと思う。
 自分には甘く、強欲に既得権益にしがみつき、底の抜けたバケツのように税金を使いまくる霞ヶ関病棟を放置してながら、国民には非道を強いる日本政府と与党政権のあり方に、若者たちもほとほと辟易している様子がわかる。
 日本はどんなことがあろうと変わらない、と思いこんでしらけていた若者たちが、オバマ氏の米国に希望を見いだしたのは、皮肉なことである。
 ならば、どうすれば日本は変わるか。チエンジ世論を作るにはメディアの役割が重要だが、テレビも新聞も頼りにならない。既成メディアは堕落しきっていてダメだから、インターネットに期待したい、というレポートがたくさんあった。
 オバマ氏がUチューブやSNSなどの新しいネット・メディアを駆使してチエンジの原動力にしたことに希望を見いだしているようだ。米国の若者たちはネットに吸い寄せられるようにして、オバマ氏の草の根の支持基盤を作っていった。
 なるほど日本にもその目はある。しかし真の変革をもたらすには、ネットの現状を変革する必要がある。誹謗中傷の書き込み、噂の垂れ流し、無責任な言説などで知られるネットを健全な世論の場にするためには、「ネットの変革」こそ重要な課題なのである。
 心ある若者たちが、ネットの変革に乗り出し、ネットを健全で嘘のない世論形成の場にすることに成功すれば、日本の本当の変革も夢ではない。
 期末の学生のレポートを読みながらそんなことを考えた。