”ノリピー祭り”のマスコミの狂態

 
 このブログでは芸能界のスキャンダルを取りあげたことはありません。しかし今回のマスコミあげての”ノリピー祭り”は、芸能界の通常のスキャンダルとは様相を異にしています。芸能人という立場上、普通の人以上のバッシングを受けているのですが、身体拘束された被疑者のノリピーには一切の反論権が奪われています。あらゆるプライバシーをここまで丸裸にされたら、いくら芸能人でもたまらないでしょう。
 どうしてマスコミはこうまでノリピーを敵視するか。その理由をマスコミ内部の経営事情の面から分析したのが、以下のコラムです。
 

広告引き揚げが加速させる経営の悪化を視聴率で挽回したいTVだが
「信頼」と「信用」を失ったマスコミは「裸の貧乏王様」になる 

 巨大メディアの迷走はいまに始まったことではない。しかしリーマンショック以降のテレビ、新聞各社のジャーナリズム放棄の迷走ぶりには、あきれるのを通り越して、凄味と恐怖すら感じる毎日だ。子供も事情聴取せよ、と顔を画面に出し、幼い人権までを破損した”ノリピー祭り”はその究極の姿だろうか。
 経営が悪化すれば図体のでかいマスコミは中身のジャーナリズムを放棄してなりふり構わぬ利潤追求に走る。それがマスコミの公理だ。
 その結果、「信頼」や「信用」というメディアの最大の社会的存在価値を失い、読者、視聴者だけでなく広告クライアントにも見捨てられる。テレビ業界の人間は視聴率さえ取れば広告はついてくると勘違いしているが、いくら視聴率が取れても信用のない番組は広告の対象にならない。「あるある大辞典」や「バンキシャ」の捏造番組の末路を見ればわかる。
 いまマスコミを襲っているのは、広告の引き揚げだ。新聞は収益の約半分は広告だし、民放テレビは全部広告収入に依存している。広告はマスコミの生命線である。
 ところが、ヤフーやグーグルなどのネットに広告を奪われたうえ、クライアントの国内の大企業や中国、米国、欧州など海外の大企業は、日本のマスコミの広告効果を疑問視している。商品販売に結びつく期待感が少なく、費用対効果が希薄なのだ。
 そのうえ信頼性が低下すればなおさら広告効果はなくなる。経済グローバル化のなかで、独自の宣伝戦略を練る企業が増え、グリコやユニチャームのように、自前のメディアを持ち、消費者の行動をリアルに分析したネット広告や口コミを重視する流れが加速している、という。
 週刊現代」(9月5日号)によると、企業に見捨てられたマスコミの最大のクライアントは、サラ金、宗教団体、政党、政府省庁の広告になりつつあるという。(同誌「新聞・テレビは死ぬのか 宗教団体・政党・省庁のカネを狙え」)。これを裏付けるように、最近のテレビの通信販売番組が目立つ。
 つまりマスコミは憲法に保障された「言論の自由」を自らの手で放棄してクライアントの宣伝機関紙化していることになる。北朝鮮メディアを嗤えない悪状況が、言論の自由のあるわが日本国にも発生しているのだ。
 「週刊現代」の同じ号に、国策捜査を訴えながら有罪判決を受けた作家で外務官僚だった佐藤優氏が「新聞の通信簿」というコラムで、「酒井法子氏の覚せい剤騒動で8月4日ー5日のクリントン元大統領の訪朝と拘束されていた女性ジャーナリストの釈放」のニュースがかきけされたと指摘している。
 このニュースは日本の北朝鮮外交戦略の変更につながる大事件だったと、佐藤氏はいうが、まさに同感である。
 また同じ日に日本の裁判員制度がスタート、第一回の裁判が行われたのだが、これに日程を合わせたかのように女優・酒井法子が逮捕された。彼女は裁判員制度PR映画「審理」の主演女優という不思議な符号ぶりだった。
 日本の進路を決定する総選挙も近い。内外の重大ニュースが目白押しの中で、煙幕をはるように降って湧いた酒井法子逮捕劇が起こり、マスコミあげての”ノリピー祭り”が始まった。
 今回のテレビの報道洪水は、ノリピーには酷な言い方をすれば、松本サリン事件のときの河野氏のケースや幼児殺人の畠山鈴香被告、和歌山カレー殺人事件の林真須美被告のときと変わらない異常な加熱ぶりで、現在も続いている。
 しかし芸能界の麻薬汚染は周知のことであり、ネットにはもっとひどい中毒者らしき有名人の名前が具体的に出ている。芸能人はほぼ覚せい剤や麻薬使用の経験があると見ていいとの書き込みもある。
 テレビに出て口汚くノリピーをののしる芸能人たちがみな同じ穴の狢に見え、懸命に自己保身している図に見える。テレビに出る芸能人はやたらとハイテンションが多く、覚せい剤でもやってるんだろうか、と疑わせる人物が多い。テレビ局の人だってわからない。
 ノリピー・バッシングの内容は、覚せい剤犯罪事実の物証よりは噂、自白(本当に自白したかどうかわからないが、警察のリーク?)、周辺・親族の証言などに終始しており、総じて本人には不利な情報ばかりで、テレビ報道の目的は理屈抜きにノリピーを起訴、有罪、執行猶予なしの実刑に追い込みたいという意図を強く感じさせる。

  たとえば、”空白の6日間”は覚せい剤を抜くためだったとか、髪を切って証拠隠滅をはかったなどの報道についても、そんなに周到に証拠隠滅を図る余裕があったなら、唯一の物証となった自宅の微量の覚せい剤をなぜ処分して逃げなかったのだろうか。後で使うつもりで置いていたとの供述があるようだが、その自覚があったなら逃げるとき真先に処分するはずだ。従ってノリピーが知らないうちに誰かが置いていたものではなかったということもあり得る。テレビ報道は視聴者のこんな初歩的な疑問にも答えることもできていない。関係者は心理学や文学も勉強したことがないのか?

 テレビ局の狙いはノリピー憎さというより、ノリピー叩きなら視聴率が稼げる、逃げる広告クライアントをつなぎとめられる、という一点につきるだろう。。。ギャラをもらって出演するコメンテーターもテレビ局の描いたシナリオに乗るだけだ。
 その視点から、一連の報道内容を詳しく分析すると、人権侵害や名誉棄損などで提訴できる部分が多々ある。その意味でノリピー事件は、日本のメディア研究の格好のテーマを与えてくれている。ノリピーが起訴されて有罪になったとして、いくら人権侵害メディアが望んでも死刑にも無期懲役にもならないのは確かだから、いつか必ず釈放される。日本は一応、民主主義の法治国家だから。
 報道被害の事実関係の本格的検証は、ノリピー裁判が終わり、釈放後から始まる。釈放されたノリピーの口から実際の生の証言を聞くことで、今回の報道の虚偽と問題点が解明できると期待している。
 それにしても、ノリピー報道洪水の裏に”押尾事件隠し”があることは周知の事実だ。マスコミ報道はノリピー叩きのみで、死者まで出ている押尾被告を不思議なほど追求しない。

 押尾事件報道には政治的圧力やタブーでもあるのだろうか? 押尾被告は外交官の息子ということだが、そういう特権を背景に”死人”疑惑が免責されるなら、日本はもはや法治国家ではない。法が特権者の感情によって支配される国家とは独裁者の国家を置いて他にない。日本のマスコミのノリピー叩きはメディアスクラムによる”集団リンチ”の様相をおびており、マスコミが作る大衆感情によって法が歪められ支配されている。
 しかるに六本木ヒルズに潜む巨悪と麻薬・児童買春にまつわるネット情報の1%の真実を信用するだけでもマスコミ報道の不公正が見えてくる。 ノリピー叩きに費やす膨大な時間とエネルギーに対して、押尾事件への沈黙と無視を比較すれば、マスコミ報道のバランスがいかに狂っているかがわかるのだ。ノリピーの”空白の6日間”の闇よりは、押尾被告のヒルズの闇のほうがはるかに深い悪の闇なのではないか?
 

 町に出て街頭インタビューをすれば、誰でもマスコミ報道はバランスを欠いていると答えるだろう。われわれの調査でもそういう結果が出ている。
 仮にもジャーナリズムを標榜してきたマスコミへのこのような痛切な批判はとても残念である。しかしこのまま放置すれば、マスコミは「裸の貧乏王様」になりかねない。これが今のマスコミの現実なのだ。だからこそ警告しているのだ。
 このコラムで芸能界のスキャンダルを扱うことはなかったが、”ノリピー祭り”だけは看過できない事件だった。
 しかしながら、テレビではNHK、新聞では朝日が事実関係を述べるだけに止め、比較的押さえた報道をしていたのが救いといえば救いだ。それにしてもジャーナリズム組織の経営悪化は、恐ろしいメディア社会を生むことを知り、われわれは新たな教訓を得ることができた。
 読者・視聴者・企業クライアントの賢明なメディア選択とメディア・リテラシーの徹底を望む。すべてを疑うこと、それがスタートの原点だ。