法の適用も格差社会か?

 法の下の平等とは何か
 押尾被告保釈?とノリピー長期勾留について

 かつては一億総中流化社会といわれ、格差のない豊かな社会として世界の羨望の的だった日本だが、最近はひどい格差社会になってきたようだ。
 失業率もうなぎ昇りでこのままゆくと、失業先進国の仲間入りしそうな勢いだ。
 格差とは収入や物質的な面で起こっていると思われているが、それだけではない。 教育を受ける権利とか法の平等な適用を受ける権利にも格差が露呈しつつある。教育には学費がかかるから、収入の多寡が教育を受ける権利と直結しているからわかりやすい。
 しかし、法の適用を受ける権利にも格差ができてきた。これはもやは民主主義社会ではない。民主主義の国家の主権者はあくまで国民で、選挙によって国民の代表が選ばれて政治を代理執行している。従って法の適用にあたって、人によって違う扱いや差別があってはならないのだ。同じことをしても、ある人は罪を免れ、ある人は厳罰に処せられるというのが法の格差であり、政治的な差別になる。
 押尾被告の保釈が決まり、ノリピーが再逮捕され10月ごろの公判まで釈放なしで拘置されるとの報道に、法の適用の格差を見る。
 押尾被告は麻薬を使っただけでなく、いっしょにいた女性が死亡、放置して逃げ、携帯電話を捨てた疑いがある。保釈すれば証拠隠滅をする恐れが高い。女性の両親も捜査への不信感をあらわにしておられる。
 これに対してノりピーは、逮捕状が出るまでは姿を隠したにせよ、それ自体は犯罪ではないし、マスコミが騒ぐような証拠隠滅の具体的な証拠もない。覚せい剤については素直に自白もしていて、子供もいるのに、起訴後いつまでも身柄拘束するのか、という疑問は当然だ。
 保釈するならノリピーが先ではないか。ノリピーには後ろ盾が何もなく、押尾被告には外交官の父親とか政財界の有力者がバックに控えているから保釈されるのか?そういう疑問は普通の国民感情の中に渦巻いている。
 何よりも国民の心を痛めているる問題は、ノリピーの息子さんと学校のことだ。夫も逮捕されているので、誰が面倒をみるのだろう。いろいろ細かいことは置いて、そろそろ子供のもとへノリピーを返したらどうか、というのは偽らざる国民感情だろう。それでもし再犯したら、そのときこそ厳罰にすればいい。日本には”大岡裁き”という伝統もある。

 ノリピーに対する報道も捜査当局の姿勢も人間的な情を欠いているようにみえ、国民感情の中で格差の実感を一層、広げている。
 選挙で当選した新政権が日本社会に蔓延する格差是正に取り組むことを国民は強く期待している。