日文研創立のころと京都学派の人たち

Tshibayama2008-04-07



桜が満開になり、久しぶりに哲学の道を歩いた。大勢の観光客で歩くスペースもままならないほどだったが、今日の哲学の道の賑わいを、かつてこの道を、思索にふけりながら散策した京都学派の創始者西田幾太郎はどう思うだろうか。
 近郊には哲学者の梅原猛氏のお宅があり、その閑静な住居に若いころはしきりにお邪魔して、いわゆる梅原日本学の魅力に取り付かれた時代があった。
 梅原氏は京都学派の哲学の継承者で、国際日本文化研究センター創立者でもあるが、古い日本学に革命的な学説を持ち込む果敢な知的挑戦者であった。
 当時の梅原氏は、まだ若手であり、京都学派の重鎮には桑原武夫今西錦司貝塚茂樹吉川幸次郎、梅竿忠雄、上山春平、高橋和己といった錚々たるメンバーが並んでいた。司馬遼太郎氏も京都学派が育てた作家だった。
 私は新聞社に入社して学芸部記者になったので、学生時代にも知っていた諸先生がたから取材ができるという”恩恵”に浴し、北白川の京大人文科学研究所にゆけば、これらの先生がたにいつでも自由に会えて雑談することもできた。私の記者の原点はここで養われたのだが、おおらかで本当に古き良き時代であったと思う。
 桑原先生には祇園の飲み屋によく連れて行ってもらい、若輩の私は、洒脱な談論風発、様々な耳学問を通じて生の知的な啓発を受けたものだ。
 桑原氏と京都学派の学者たちは、まさに知の巨人だった。こんな人たちはもう日本中どこを探しても絶対にいない。西田哲学の絶対矛盾の自己撞着、の概念を持ち出そうとも、絶対にいない。いまは”知の小人たち”がそれぞれの縄張りにすがりついて、食い扶持確保にしのぎを削っているだけだ。
 哲学の道を歩くと、様々な思い出が湧き上がってくる。
 京都に日文研を作って日本の知をもっと国際化させることの重要性を考えた梅原氏は、当時の中曽根首相に趣旨を訴えて賛同させ、国を動かした。
 やがて日文研設立調査費が予算化され、文部省の屋根裏部屋のような狭い部屋に設立準備室ができた。私は梅原氏の構想に賛同し記者としてその部屋を何度も訪ねて取材したが、梅原氏と彼をサポートする若手の京大助手だった園田英弘氏の二人と、もう一人文部省の役人が粗末な椅子に座っているだけだった。
 本当に日文研ができるのだろうか? 私はそこを訪ねるたびにいつもそう思った。梅原氏は高く志を掲げていたが、園田氏と私がふたりだけになって雑談すると、私と同様に懐疑的だった。
 学界世論は梅原構想に冷たく、特に東大などの左翼系の学者たちは京都に設立というだけで反感を持っており、梅原氏の思想が保守的で戦前型のナショナリズムを復活させるものだという悪宣伝も行われていた。
 私は梅原構想を実現すべきだという立場から、日文研設立は決して偏狭なナショナリズムを煽るものでなく、日本の国際化にとって貢献するものだという記事を書きまくったことを覚えている。
 やがて反対世論は沈静化し、日文研は京都の洛西に設立され、広大な敷地と立派な研究棟が完成し、梅原氏は初代の所長になった。梅原氏の鉄をも溶かす火の情熱の勝利であろう。
 設立に奔走され、梅原氏の最大のパートナーでもあった園田氏は、そのご日文研教授になり副所長になって順調に出世していると思っていたが、昨年、自殺の訃報に接して、愕然としている。
 国立研究所の独立行政法人化の統廃合をめぐる心労があったと、そのごお聞きしたが、なぜ園田氏が自殺されたのか真相はわからない。
 その後、彼とはあまり話す機会がなかったことを悔やんでいるが、数年前に、梅原氏の文化勲章授賞パーティで、園田氏と交わした会話が忘れられない。
 「梅原さんの文化勲章は、文部省のあの部屋から始まったんだよ。柴山さんが一生懸命に書いたあの記事がなければ今日の文化勲章もなかったんだよ」。
 私は言葉を返した。「園田さんの縁の下の雑務が日文研設立を支えたんだ。園田さんのお陰だよ」。
 その園田さんが亡くなったことはまことに悔しい。満開の桜の下を歩きながら、やはり最後には、園田氏のことを思い出していた。
 遺児がまだ学齢期にあるという。日文研の有志たちが園田氏の遺児の奨学資金の呼びかけをしているので、私もなにがしかの協力をしたいと思っている。