年末年始のテレビの醜態

連続ドラマ「白虎隊」だけは例外だった

 年末年始のテレビの低劣ぶりには辟易しました。フセイン処刑ニュースすらほとんど報道されないし、情報鎖国ぶりを遺憾なく発揮しましたね。
 ブラウン管がグルメ中毒にでもかかっているようで、食べ物のほかはオチャラカ、歌、スポーツ特番の反復を考えるしか能がないみたいです。
 民放はロハだから、文句もいえないかもしれないが、公共放送NHKも大差なし。紅白の視聴率もどんどん落ち、大晦日に奇妙な裸踊りをさせて、世間の失笑を買ったようです。
 鳴り物いりの「風林火山」も、映像が汚くて期待はずれでした。前回バージョンよりレベルはかなり落ちそうです。
 そうした中で、唯一、テレビ朝日系の連ドラ「白虎隊」だけは見てしまいました。
 現代へのメッセージがこめられていたからです。そのメッセージは、映画「硫黄島からの手紙」にも通じるものがありました。
 というより、会津戦争の戦闘場面の描写が似ていました。「白虎隊」の監督は「硫黄島からの手紙」を見ていたのかもしれません。
それはともかく、会津藩と藩主・松平容保が幕末の動乱期に果たした歴史的役割は、かなり歪められてきたが、このドラマにはこれを修正する試みが見えました。そこを評価したいと思います。
 歴史の見方の修正主義、というやつです。硫黄島イーストウッド監督も、修正主義の歴史観に立って、日米双方から見た「硫黄島」を作品化したのです。米国では、パールハーバーや太平洋戦争の見直しをする歴史修正主義の流れがあります。
 わが白虎隊の悲劇も、単なる悲しい物語ではなく、会津が圧倒的な兵力を持つ薩長土連合軍と戦わざるを得なかった深い歴史的な理由があったわけです。
 しかし明治維新の権力を握った薩摩、長州、土佐の側から見れば、会津は維新に逆らった敵であるばかりでなく、朝廷の敵にもなりました。反逆者、賊軍の代表格こそ、会津であり松平容保だったのです。
 賊軍だから、会津戦争の死者は靖国神社にも祀られていません。しかし会津も白虎隊も日本の維新に向けて全精力を傾注した志の集団であることに相違はなかったのです。
 薩摩、長州、土佐連合が作った歴史だけが正当な日本の歴史であるはずはない。この当たり前のことを、ドラマは教えていて良かったと思います。
 また「硫黄島からの手紙」のように、戦場に狩り出された兵士を待つのは、「戦場の恐怖」です。愛国心や忠誠心が高ぶる先にあるのは、砲弾が飛び交う「戦場の恐怖」です。すさまじい恐怖に震えるのです。
 戦場で死ぬな、恐怖を超えて生きることこそ正しい、何はともあれ生き延びよ、というメッセージは映画にも共通していました。
 藩主・松平容保はこれ以上、若者を犬死させて家族を悲しませないために、降伏を決意するのですが、そこには武士道精神の発露がありました。自分の身を犠牲にして民の困窮を救う。これこそが武士道であり、ノーブレス・オブリッジの精神です。