硫黄島からの手紙

Tshibayama2007-01-03

ノーブレス・オブリッジとしての栗林中将

 「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」を見ました。硫黄島の激戦が、太平洋戦争の帰趨を決する重要な意味を持っていたことがよくわかりました。日米双方の戦争を、二つの視点から描いた初めての映画で、戦争映画としてはとても公正な作り方だと思います。戦後60年、両国の歴史認識のずれを埋める貴重な映画です(=写真は渡辺謙が演じる栗林中将、ワーナーブラザーズ提供)。
 硫黄島で日本は玉砕しましたが、アメリカも必死だったことがわかります。両国の兵士たちが国家の命運をかけて必死で戦ったことは、悲劇ではあるが、死者たちの魂の救いではあります。
 イラク戦争でもそうでしたが、同じ戦争といっても、アメリカの立場とアラブの立場とは、戦争の見方、捉え方はまったく違っていました。
 イーストウッド監督は、そうした戦争を担う立場の違いを、2つの異なった映画で表しました。
 2つの映画に共通するテーマは、「戦場の恐怖」です。その恐怖が人間を変える。しかも恐怖の戦場は、国民的な熱狂によって作られるということです。恐怖の戦場に駆り立てられるのは、いつの時代でも若者たちです。
 戦争が終わり、恐怖と熱狂が去っても、60年前の死者たちの魂はまだ硫黄島に取り残され、さまよっているのではないか。
 硫黄島だけでなく、南太平洋の島々にはそういう戦場の痛ましい痕跡がいたるところにあります。
映画の大きな成果の一つは、現代の日本人が栗林中将を知ったことです。栗林中将にはさまざまな伝説があるようですが、イーストウッド監督が描いてくれた栗林イメージは、崇高な日本人への敬意でもありました。
 パールハーバーを奇襲した卑劣な日本イメージとは正反対の、ノーブリス・オブリッジとしての高潔な栗林中将の人生を、渡辺謙が見事に演じてくれました。
ノーブリス・オブリッジ。高い地位にある人物は自己利益を捨て、国民への奉仕に徹するという精神です。
 残念ながら、戦後の日本からは消滅した言葉です。元政府税調会長の本間氏の愛人スキャンダるのように、高い地位にある人間たちが、既得権益にすがりつき、平然と利得行為を行う世の中になっています。人を押しのけて良い学校に行き、高い地位に上ればそれだけ利得と金が得られる、というのが偏差値優先の戦後教育を貫いてきた考え方です。
 教育改革を口にするなら、まずは偏差値潰しから始めよ、といいたい。自分さえ良ければいい大人の背中を見て、子は育つのです。子供の心に、他人への配慮が生まれる余地などありません。
 金儲けして気楽に生きたいなら、手に職をつけよ、無理して大学にも行くな、高い地位を求めるな、と子供に教えることです。
 道徳教育が必要なのは、政治家、役人、教師、マスコミ人など社会の指導的立場にある人間です。
 ノーブリス・オブリッジはヨーロッパ貴族の伝統ですが、戦前の日本にあった「武士道精神」がこれに似ています。戦後日本人は、戦前にはなかった「民主主義と自由」を得ましたが、GHQに与えられた「民主主義と自由」の使い方を、60年の長きにわたって完璧に間違え、今日まで来てしまったのではないでしょうか。
 「GHQが押し付けた戦後民主主義と自由が悪かった」などの悪態をつく”偉い人”がときどきいますが、そういう人は履き違えの事実を自ら証明しています。武士道精神などは、とっくに忘却しているでしょう。

 武士道といえば、やはり渡辺謙の「ラスト・サムライ」も素晴らしい映画でした。彼は流暢な英語をこなす国際俳優ですが、閉塞した日本社会の中から、彼のような立派な俳優が生まれたことは、戦後日本人の誇りとすべきことかもしれません。