ジダンの頭突き

 ジダンの頭突き事件は、世界中の関心を呼びました。ワールドカップとは、民族の誇りと高揚を賭けた代理戦争のような様相を帯びています。
 オリンピックに比べて、はるかに戦闘的なイベントです。
 このブログでも書いたように、ネオナチが台頭したドイツ会場では汚い野次が飛び、遠慮ない人種差別の言動がはびこっていました。黒いサル、汚いテロリスト、恥知らずのXX人、等々です。
 こうした雰囲気のなか、決勝戦は殺気立ち、ついにジダンの頭突き事件が起こったのです。


 ワールドカップで世界は一つ、とはいうものの、民族や国境の壁は大きい。なぜかというと、民族と国境の壁の中には様々な人間の歴史と記憶が塗り込められているからです。人種差別は、優越感と屈辱感が混在した強烈なトラウマの感情です。それが時々、暴発する。
 ジダンは、フランスの旧植民地アルジェリアの出身で、移民労働者の息子です。宗主国に移民したジダン一家が、どんな辛酸をなめて生きてきたか、想像できます。
 イタリアのマテラッティが、ジダンにどんな屈辱の言葉を吐いたか、明らかではありませんが、その一言で、”神が愛した男ジダンは切れたのでした。
 切れるーー日本でもはやっています。若者が切れて殺人、放火などの事件を起こす。
心の中のトラウマが限界点に達してある日突然、暴発するのでしょう。犯罪を犯した本人も、自分がなぜ事件を起こしたか、説明ができない。
 一人の人間が切れる心の根底にあるのは、プライドとそれに対する屈辱感だろうと思います。
 言葉によるイジメが、凶暴でもなく、犯罪者の資質をもたない若者を不本意な犯罪へと駆り立てている。
 ジダンの愚行は、シラク大統領のねぎらいの言葉によって癒されているのは喜ばしいことです。
 人間は時として、切れるときがある。そのとき、社会はどう事件に向き合うのか。社会が冷酷であればあるほど、人間は癒されず、切れる人間が増えるでしょう。わが日本社会も冷酷の度合いを一層、増しつつあるのではないかと思います。
 映画「三丁目の夕日」の時代は、いまよりずっと貧しかったが、日本人の心はもっと豊かで、優しかったのではないか。