司馬遼太郎さんのジャーナリズム論 

Tshibayama2006-04-05

新聞記者時代に学芸部に配属されて、司馬遼太郎氏の小説『胡蝶の夢』を担当したことがあります。そういう縁で、よく司馬さんのご自宅へお邪魔しました。若手だった私が忙しく動き回っている姿に、司馬さんは、「日本の新聞記者はそんなに働かなくてもいいんだよ」と冗談交じりにいいました。君たちは「天気予報」だけしっかりやればいい、というのです。
 新聞記者の先輩でもある司馬さんの言に対し怪訝な顔をしてる私に、ユニークな司馬史観が炸裂しました。
 島国の稲作農耕民族の日本人の8割は農民出身だ。そういう稲作農民の歴史的DNAを背負った現代人が都会でサラリーマンをしている。新聞記者も同様だ。
 稲作にとって最も需要なことは天気予報。天気情報の収集は村落の長の役割だった。農民は村長からもらう正確な天気予報をもとに、しっかり田圃を管理していれば良かったのである。あとは隣近所のうわさ話を楽しむだけだ。島国だから外敵も少なく、政治は祀りごと、お上の儀式と技で、庶民にはよそ事、ニュースも情報も必需品ではなかった。
 調べてみると、江戸時代の瓦版のネタは、おおむね、地震や洪水ものです。(瓦版図参照、「大坂近郊大地震被害」=東大・小野秀雄コレクション=『ニュースの誕生』から)。
 そういう民族性がしみこんだ日本人庶民は、現代においてもニュースや出来事に関心が薄い。従ってお上が告知する情報を書くのが、日本の新聞記者の主な役割、というわけ。
 なるほど。発表ネタに依存せず、スクープや調査報道こそが記者の役割と気負ていた私は、目から鱗が落ちた、という思いがしました。この話は、拙著『「情報人」のすすめ』(集英社新書)に書いてあります。

 徳川300年に続く明治維新以降、現代に至るまで、日本人の農民メンタリティはそれほど変わらない、という司馬史観は、一面で当を得ています。その典型が、今回の永田メール事件と民主党の大混乱ではないか。東大、大蔵省というエリートコースを歩んだ永田議員も、情報の信憑性を厳しくチエックするという技を身につけていなかったのです。天気予報と偽メールの区別がつかなかったという点では、民主党また司馬史観から一歩も出てはいなかった、ということになります。
 詳しくは公式サイトでどうぞ。http://www014.upp.so-net.ne.jp/mediaforum/