龍馬ブームのなか、わが幕末維新の散策

Tshibayama2010-04-19

西郷方の兵卒として西南戦争に参加した先祖に思いをはせてみた

NHKドラマの影響で、龍馬人気がすごい。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」で脚光を浴びた龍馬だが、司馬さんの本では龍馬暗殺の謎を深く追求していなかった点、物足りなさがあった。龍馬暗殺は新撰組や見回り隊の仕業という定説はあるが、近年、この謎を解く本がいくつか出版されている(=写真は坂本龍馬の墓がある京都霊山護国神社

 薩摩の西郷隆盛大久保利通が影の仕掛け人だとか、長州藩桂小五郎が指令したとか、公家の岩倉具視がかかわっているとか、諸説が入り乱れている。龍馬は現代でも謎解きのネタに事欠かない大人物だから、与野党を問わず政治家たちが憧れる理想像のようだ。
 
 京都四条の電車の駅や売店には、「龍馬と歩く京のまち」という案内パンフレットが置いてあり、これを手にして龍馬ゆかりの旅を楽しむ老若男女が、狭い京都の町にあふれている。京都の史跡は”歴女”たちの心をつかむだけではなさそうだ。
 高瀬川界隈から木屋町周辺は、藩邸跡や志士たちの住居跡が密集している。三条大橋のたもとにある龍馬ゆかりの池田屋は観光スポットの居酒屋になっている。海援隊の本部があった材木商の酢屋は、当時の面影を伝えて「ギャラリー龍馬」と名を変えていた。
龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の屋敷はなくなっていて、石碑だけが立っていた。
 少し足を伸ばして、壬生寺新撰組屯所跡まで歩くと、そこには幕末の別の顔がある。壬生寺には龍馬の敵として戦った近藤勇土方歳三らの墓があり、屯所屋敷には刀傷が鮮やかに残っている。「加茂の河原に千鳥が騒ぐ、またも血の雨、涙雨、、」の歌が流れている。屯所の瀟洒な庭は、150年前の血のドラマの様子をじっと見ていたのだろう。
 誰が敵で誰が味方かわからない、何が正義で何が不正義かもわからない。それを決めるのは自分だけ、というすさまじい時代を生きていた志士たちに思いをはせた。

 私の先祖は西郷方の志士として西南戦争に参加した。子供のころ、亡父から数回、この話を聞いたが、私は関心を持たなかったばかりか、変な先祖がいるな、と思ってその記憶を封印した。父は川柳を詠んでおり、号を南州と称していた。南州とは西郷隆盛の号と同じである。父は大の西郷びいきだった。
 しかし西南戦争は西郷の負けで、負ければ賊軍だからな、あまり誉めた話じゃない、と父はつぶやいていた。
 祖母はよく篤姫の話をしていた。篤姫の幼馴染みで、島津家の家老の家に養子に入った肝付尚五郎の実家と祖母宅は交流があり、その話もよく聞いていたが、それが小松帯刀のことだとは、ずっと後で知った。実は、昨年のNHKドラマ「篤姫」を見て、初めて篤姫の存在に目を奪われたものだ。祖母の話が蘇り、子供のころの記憶というものは本当に危うく、儚いものだと知った。
 自分の先祖がどういう人で何をしていたかもよく知らないのだ。若者が歴史を知らないと嘆く大人になったいまでも、自分の家族の歴史には疎い。
 直系の先祖が幕末維新のひとつの強烈な動きに関与したことは面映ゆい。そう思って人にも話さなかった。ジャーナリストとして、歴史が客観的に見れなくなるのを何よりも恐れたからだ。
 しかし年をとって、封印していた記憶を解くようになった。龍馬ゆかりの地を散策しながら祖先をしのぶと、自分が歴史の小さな一齣の中で生かされていることを感じる。
 義を持って生きた人間の死は対等のはずだと思うようになった。龍馬の死にも土方歳三の死にも同等の義があるのだときずく。龍馬を好む人、西郷を好む人、近藤・土方を好む人、それぞれである。
 もっと名もないが、自らの義に殉じた志士たちがたくさんいる。さらに誰にも顧みられることもなく死んでいったおびただしい人間が歴史の闇の中に呑まれている。
 これに気がついた人が、歴史の闇に呑まれてしまった無名の人たちを救い出すしかない。
 龍馬だけが英雄ではないのだ。いつまでも龍馬を偏愛していると日本人の精神はいびつになる。
 海音寺潮五郎の『西郷と大久保』を読んでいたら、薩摩藩士同士が凄絶な内ゲバをやった伏見の寺田屋事件のとき、私と同じ柴山姓の薩摩藩士が複数加わり、一人が死んでいることがわかった。ひょっとするとこの人物はゆかりの人かもしれない。寺田屋坂本龍馬の定宿だった。著名な政治家が龍馬の親戚の親戚のそのまた親戚の遠縁にあたるといっていたが、そんなことをいえば日本中はみな親戚になるかもしれない。まだ調べてはいないが、そのうちに調べようを思っている。